鶴見臨港鐵道株式会社

◆利他の経営(敬称略)

 淺野總一郎を語る言葉として新田純子さんの小説「その男、はかりしれず-日本の近代をつくった男 浅野総一郎伝:サンマーク出版」に記されている安田善次郎がのちの東京市長である後藤新平に語った言葉として、『「浅野総一郎の事業は誠に国家的である。たとえ営利に失敗したとしても、浅野の事業は後世に残るであろう。私はそのために、おおいに後押しする決心だ。」 安田善次郎は、利益追求のためにのみ浅野総一郎の事業に協力したのではない。国を思う男の情熱を果敢に実行する浅野総一郎という男に惚れたのだ。そんな壮大な男同士の絆が育つには、苦難を共にくぐり抜けたという共通基盤があった。』とあります。

 淺野総一郎の偉業は起業した事業の多くが私利私欲の利益追求というよりも、国家発展の為、また国民の為に役立つ必要とされる事業を多く興したことにあるように思います。また身を粉にして一心不乱に働き、世の為人の為に起業し、仲間を募り多種多様幅広い人脈を構築、人を発掘し適材適所で配置する。それは当社の起業においてもその手際のよさと経営理念方針の設定、人材の配置に於いてスケールの違う正真正銘のプロ経営者と時代のトップ技術者の共演が“お見事”としか形容のしようがありません。まさに浅野總一郎、起業家人生の集大成であり最後にして最高傑作であったかもしれません。

鶴見臨港鐵道株式會社 第1回営業報告書

 国家的希有壮大な埋立地造成プロジェクト(当時の工事費で3700万円、現在価値換算で1100億円を超える大事業)を一民間人が賛同する出資者・融資者を募って起業推進し、鐵道省に鐵道布設を要請しても叶わなかった埋立地連絡する先進的な鐵道の敷設を独自に企画するというところが当社設立の一丁目一番地であります。いわば埋立地内独占事業ですから利益追求を第一に創業するなら沿線企業を株主にしないで、貨客運輸賃料も鉄道事業者の利益優先で設定すればよかった訳ですが、そうしなかったことで公益事業を生業とする当社の宿命が創業時にインプットされております。

 創業時の取締役の構成をみましても以下の通り、7名のうち浅野系※と呼べる者は3名しかいないかと思います。 
淺野 總一郎 ※代表取締役
大川 平三郎 ※渋沢栄一の甥 抄紙会社(後の王子製紙)専務取締役
岩原 謙三 芝浦製作所社長
清岡 那之助 紐育 (ニューヨーク) スタンダード石油会社顧問
白石 元次郎 ※日本鋼管初代社長
田村 八二 旭硝子
津下 紋太郎 日本石油

 沿線荷主の多くが株主であり、主要な先は弊社取締役を兼務しているという状況は、現代の法的見地で考えると重役会決議における運賃値下の決議等は間違いなく利益相反の類ですが、経営モデルとしてはそれだけ難しい設定で、沿線荷主企業からすれば鐵道會社が儲けすぎても困るが赤字で破綻しても困る絶妙なバランス関係の上に共存共栄を目指す運命共同体のような関係であったかと思われます。企業とそこで働く従業員、そして顧客であり荷主でもあり株主でもあるそれぞれが密接にリンクするWin-Winの関係、そんな理想的な事業環境がそこにはビルトインされていたようです。

 その後、埋立地進出企業の請願を請けて旅客運輸を開始するため、昭和4(1929)年9月鐵道省から旅客認可の条件とされた京濱電鉄株式會社の子会社海岸電気軌道株式會社の合併を決議し、翌昭和5(1930)年4月に合併、昭和恐慌の荒波直前に、その設立時の巨額の負債と不採算事業を引き継ぐこととなります。因みに昭和4年11月決算に於ける総収入は24万1千円余り、当期利益金は10万5千円余、株金は(300万円うち未払込株金が80万円)実質純株金220万円の財務状況で、海岸電気軌道鰍フ債務190万円を引き継ぐこととなりました。軌道線の収入は昭和12年下期で5万4千円余、利益は1万円余とされておりますが、実際は190万円の借入金年利3%で年間5万7千円の利息が生じますので、実質赤字事業であり、この事業を継続しても引き継いだ債務の弁済は大変厳しい状況だったことがわかります。

 東京湾埋立鰍ェ埋立地販売する際に鉄道敷設で利便性を供与することを前提としていたことは南満州鐵道やフォード自動車への用地売却の際の文書にも記載ありますが、進出企業ヘの貨客運輸の利便提供の為に当社は設立された経緯があります。まさに公益事業であり、現代風に言えば「利他の経営」そのものであったように思われます。

 その後、矢向線・大森線については諸事情により実現はしませんでしたが、沿線の多くの住民からの請願を請けて、免許取得し設計に至った経緯があります。当時の地方鐵道法第30-36条で「政府買収」について規定されており、公益上必要と認めた場合は政府が私鉄を買収できるとされていたということで、戦時買収(昭和18年7月)の10年以上前に、昭和恐慌による不況の影響で株主でもあり荷主からの度重なる運賃値下げ要請による昭和7年5月決算での損失計上を受けて、昭和7年10月の時点で当社として買収請願という決定をしており、その理由として「今後景気挽回シ出貨激増セバ漸次利益ヲ挙ゲ得ルニ至ル可キモ元来距離短小ニシテ独立ノ経営ニハ種々ノ不利アリ且其貨客共ニ大部分省線ニ連帯スルモノナルヲ以テ省線トシテ経営セラルル時ハ乗客及荷主ノ享クル便益尠カラズ故ニ當社ハ地方鐵道法ニ依ル買収ヲ請願シ極力其実現ヲ計ル事ニ決ス」と記載されております。

 戦時買収の後、その後の影響について日本鋼管株式会社 運輸部長 永田米三郎氏から柏原鉄道監に宛てた昭和18年12月24日付報告書が市史研究横浜第7号「戦時輸送体制下における地方鉄道買収-柏原兵太郎関係文書にみる鶴見臨港鉄道と南武鉄道」(著:渡邉恵一)に記載されています。
 一部引用すると「本年七月一日鶴見臨港鉄道ガ省ニ買収セラルルニ至リ沿線工場ニ出入スル貨客ノ輸送ガ政府所期ノ通リ果シテ改善増強セラレタルヤト云フニ、遺憾ナガラ其実情ハ却テ能率低下セルコトヲ認メザルニ得ザル次第ニ有之候 尤モ当社以外関係各工場ノ実情ヲ悉知スルコト能ハズ候ヘバ買収前後ニ於ケル臨港沿線全般ノ実情ヲ比較スルコト困難ニ有之候ニ付左ニ当社関係事項並ニ小職ノ関知セル二、三ノ実例ヲ列記シ並セテ之ガ原因ヲ探究説明申上グルコトニ致候

一、実例(項目のみ)
(イ)鶴見製鉄所向石炭直送不能
(ロ)近距離輸送の禁止
(ハ)東京瓦斯向石炭ノ直送不能
(ニ)対駅交渉事務ノ煩雑化

二、理由
叙上ノ如ク事務煩瑣能率低下阻害ヲ来セル原因ハ決シテ駅当局者ノ怠慢ニ帰スルコトヲ得ズ左ニ掲ゲル事項ハ其ノ重大ナル原因ヲナセルモノト信ズ
(イ)鉄道輸送ニ於ケル全国的一般規則ノ適用ヲ受クルコト
臨港線ハ事実上広義ニ於ケル工場構内線ナレバ全国的一般規則ヲ適用スルニ於テハ能率挙ラザルコト勿論ナリ 試ミニ鉄道当局ヲシテ当社三工場内ニ於ケル構内鉄道輸送状況ヲ視察セシメンカ、其ノ作業ノ一トシテ省ノ規則ニ適合セルモノナキヲ認ムベシ、即チ何レモ規則違反の行為ノミナリ・・・・・以上ニ依リ明カナル如ク臨港線ニセヨ南武線ニセヨ之ヲ省ニ買収シ、省ノ規則ニ従ヒ運営スルニ於テハ其間能率ノ低下ヲ来タスベキコトハ甚ダ明瞭ナリ 過般柏原鉄道監ハ浜川崎駅当局ニ対シ戦時ナル理由ノ下ニ規則ニ拘泥セス能率ヲ増進スベキコトヲ訓示サレタル由ナルモ果シテ訓示通リ遂行サレルモノナリヤ若シ一時ノ訓示ニ依リ其ノ訓示通リ実行サルルモノナラバ怖ラク日本ノ重要産業ハ既に隔世ノ進展ヲナシタルモノナルベシ、規則ヲ一歩モ踏ミ越ユベカラスト言フ官庁ノ習慣ハ官庁生活ヲ数十年継続セル駅当局者ノ脳裡ニ深クコビリ付キ之ヲ一場ノ口頭訓示ノミニテ急転換セシメントスルモ容易ニ之ヲ実現シ得サルベシ・・・・

(ロ)鉄道従業員ノ勤労問題
鉄道従業員ハ官吏官業員タルト同時ニ産業戦士ナリ当社其他重要産業戦士ニハ産業戦士トシテ酒、食料ノ特配其他ノ特別ノ待遇ヲ受ケ居ルニ拘ラス鉄道従業員ニ対シテハ之ト同等ノ特配若クハ待遇ヲナシ居ルヤ否ヤ、勿論鉄道トシテハ相当ノ待遇ヲナシ居レルナランモ産業戦士ト同等ナラザルコトハ明カナリ・・・・・彼等ヲシテ超非常時的作業ヲナサシムルニハ之ニ相当セル超非常時的待遇ヲナサザルベカラス、鐵道当局ニ於テ果シテ之ヲナシ得ルヤ、臨港線ナルガ故ニ南武線ナルガ故ニ特別ノ待遇ヲナスコトハ困難ナルベシ況ンヤ沿線工場ノ産業戦士並ノ待遇ヲヤ、之省営トナリテ能率ノ挙ラザル最モ重大ナル原因ナリ、日本人トシテハ斯クアルヘカラズト唱フルハ机上論ナリ実際は斯クアルナリ

以上ハ甚顕著ナル実例及理由ノ一、ニを挙ゲタルニ過ギザルモ実際ニ於テ輸送能率ノ低下ハ発車時刻ノ遅延、臨港線荷捌能率低下ニ伴フ入貨貨車ノ現地発送止、新鶴見操車場其他ニ於ケル貨車ノ群集滞留等枚挙ニ遑アラズ之等ハ何レモ民営ヨリ官営ニ移リタル結果ニ外ナラズ以上ハ貨物関係ニ就イテノ影響ヲ説明セルモノナルガ旅客輸送ニ就イテモ遺憾乍ラ其実績ハ却ツテ低下セル実情ナリ・・・・」とあります。

 以上、当社の創業から戦時買収に至る経営の大本について一部記載しましたが、永田米三郎氏の報告書を拝読するとその本質が鮮明になっているように思います。詳細については渡邉先生の論文をご参照下さい。